かつて「人生60年」と言われた時代は遠い昔となり、今や私たちは「人生100年時代」のど真ん中を生きています。それに伴い、会社の定年も60歳から65歳へ、そして2021年の高年齢者雇用安定法改正により、企業には70歳までの就業機会確保が努力義務として課されるようになりました。
「できるだけ長く働ける」。それは一見、喜ばしいことのように思えます。しかし、多くのビジネスパーソンが、「一体、自分は何歳まで働けばいいのだろう?」という、かつてないほど難しい問いに直面しているのも事実です。
体力は?お金は?やりがいは?そして、引退後の人生は?
本記事では、定年延長時代における「引退の最適解」を導き出すための手引きを、深く、そして具体的に解説していきます。これは、あなたの人生の後半戦を、より豊かに、そして満足のいくものにするための「羅針盤」です。
なぜ今、引退時期の判断がこれほど難しいのか?
かつての「60歳定年」時代は、ある意味でシンプルでした。多くの人が同じタイミングで会社を去り、第二の人生をスタートさせる。しかし今は違います。働き続けたい人は70歳まで、あるいはそれ以降も働き続ける道があり、一方で早期退職を選択する人もいます。
選択肢の多様化は、私たちに「自ら引退時期をデザインする責任」を委ねました。この責任を果たすためには、引退を多角的に捉え、自分なりの判断軸を持つことが不可欠です。
「引退時期」を決める3つの判断軸
引退時期を考える上で、絶対に外せない3つの判断軸があります。「お金」「健康」「やりがい」です。これらを一つずつ、専門的な視点から深掘りしていきましょう。
判断軸1:お金(経済的合理性)―「いつまで働けば、安心か?」
老後の生活の基盤となるのが、経済的な安定です。感情論を抜きに、まずは冷静に数字と向き合うことから始めましょう。
1. 生涯年収と年金額の最大化という視点
60歳で引退するのと、65歳、70歳まで働くのでは、生涯に得る収入に大きな差が生まれます。
- 生涯賃金の増加: 例えば年収500万円の人が65歳まで働けば、60歳で引退するより単純計算で2,500万円多く収入を得られます。70歳までなら、その差は5,000万円にもなります。
- 厚生年金の増加: 厚生年金の受給額は、加入期間と報酬額によって決まります。長く働くほど加入期間が延び、その分、将来受け取る年金額も増えていきます。
- 年金の繰り下げ受給という「最強の選択肢」: 年金の受給開始は原則65歳ですが、最大75歳まで繰り下げることができます。繰り下げた場合、1ヶ月あたり0.7%ずつ受給額が増額され、70歳まで繰り下げれば42%増、75歳までなら84%増となります。この増額率は生涯変わりません。(参考:
日本年金機構HP 年金の繰下げ受給)
2. 「見える化」こそが第一歩
まずはご自身の現状を正確に把握しましょう。
- ねんきん定期便の確認: 日本年金機構から毎年送られてくる「ねんきん定期便」で、これまでの加入実績と将来の年金見込み額を確認します。「ねんきんネット」を使えば、より詳細なシミュレーションも可能です。
- 退職金・企業年金の確認: 会社の就業規則や退職金規程を読み込み、何歳で退職すれば、いくら受け取れるのかを把握します。
- 私的年金・資産の棚卸し: iDeCoやNISA、預貯金、有価証券など、ご自身の資産をすべてリストアップし、総額を把握しましょう。
これらの情報を元に、「65歳で引退した場合」「70歳で引退した場合」など、複数のパターンで引退後の収支をシミュレーションすることが、後悔しない選択への第一歩です。
判断軸2:健康(心身の持続可能性)―「いつまで元気に働けるか?」
いくらお金があっても、心身が健康でなければ豊かな人生は送れません。「平均寿命」と「健康寿命」の差を意識することが重要です。
1. 健康寿命という「本当のタイムリミット」
日本の平均寿命は男性約81歳、女性87歳ですが、自立して生活できる期間を示す健康寿命は、男性約72歳、女性約75歳です。つまり、男女ともに約9年〜12年間は、何らかの介護や支援を必要とする可能性があるのです。(参考リンク:日本生命保健文化センターHP 健康寿命とはどのようなもの?)
- 引退後の人生でやりたいことがあるのなら、それは「健康寿命」のうちに実行すべきです。70歳まで働き詰めで、いざ引退した時には気力も体力も衰え、旅行や趣味を楽しむことができなかった、というのでは本末転倒です。お金のために働き続けることが、結果として人生の楽しみを奪う可能性も考慮しなくてはなりません。
2. 働き続けることの健康効果とリスク
働き続けることには、二つの側面があります。
- ポジティブな側面: 定期的な通勤や業務は、適度な運動や頭脳の活性化に繋がります。社会とのつながりを保つことは、孤独を防ぎ、精神的なハリをもたらします。
- ネガティブな側面: 加齢による体力の低下は避けられません。満員電車での通勤や、責任の重い仕事、複雑な人間関係が、心身への大きなストレスとなる可能性もあります。特に、役職定年などで役割が変わり、モチベーションが低下した状態で働き続けることは、精神衛生上、好ましくない場合もあります。
「まだ働ける」と「無理なく働ける」は違います。ご自身の体力、気力、そして仕事内容を客観的に見つめ直し、「心身ともに健康な状態で、あと何年働けるか」という視点を持つことが肝心です。
判断軸3:やりがい・生きがい(精神的充足)―「何のために、働くのか?」
仕事は、単なる収入を得るための手段ではありません。自己実現の場であり、社会との繋がりであり、自らのアイデンティティの一部でもあります。
1. 「会社の肩書」がなくなった時
長年勤め上げた会社を退職した途端、社会から切り離されたような孤独感や、目的を失った虚無感に襲われるケースは少なくありません。特に、仕事一筋で生きてきた方ほど、その喪失感は大きくなります。
70歳まで働き続けるという選択は、この「喪失感」を先延ばしにすることに繋がるかもしれません。しかし、それは問題の先送りに過ぎない可能性もあります。
2. 「引退準備」としての助走期間
理想的なのは、会社に在籍しているうちから、会社以外の「居場所」や「やりがい」を見つけておくことです。60歳を過ぎ、役職定年などで時間に少し余裕ができたなら、それは絶好のチャンスです。
- 趣味や学び直し: 昔やりたかった楽器を習う、大学の公開講座に通う、地域のボランティア活動に参加するなど、興味のある世界に足を踏み入れてみましょう。
- 副業・パラレルキャリア: これまでの経験を活かして、コンサルタントとして独立したり、若い世代にスキルを教えたりすることも可能です。小さな成功体験が、引退後の大きな自信に繋がります。
「何歳で引退するか」と同時に、「引退後、何をしたいか」を具体的に考えること。この両輪があって初めて、満足のいく引退プランを描くことができます。
【ケース別】後悔しないための引退プランニング
上記の3つの判断軸を元に、いくつかのモデルケースを見ていきましょう。
ケースA:経済的には余裕あり。健康なうちに趣味を満喫したい(60代前半)
- 60歳や62歳など、早期に引退し、健康寿命を最大限に趣味や旅行に使うという選択。
- 年金の繰り上げ受給は減額率が高いため慎重に判断し、退職金や資産を取り崩しながら生活するプランを立てる。もしくは、勤務日数を減らした再雇用で緩やかに働きながら、セカンドライフへの助走期間とするのも良いでしょう。
ケースB:老後資金にやや不安。体力には自信あり(65歳前後)
- 65歳以降も継続雇用制度を活用し、働き続けるのが現実的な選択。目標貯蓄額に達するまで、あと数年働くことを目指す。
- 可能であれば、年金の受給を68歳や70歳まで繰り下げることで、将来の年金額を増やし、長期的な経済的安定を手に入れる戦略が有効です。
ケースC:仕事が生きがい。社会との繋がりを保ちたい(70歳手前)
- 70歳までの就業機会確保措置を最大限に活用。ただし、健康管理にはこれまで以上に留意が必要です。後進の育成や、長年の経験を活かしたアドバイザー的な役割など、会社と相談しながら無理のない働き方を見つけることが重要。
- 「生涯現役」を目指すのであれば、会社に依存しない、個人としての専門性を磨き続ける意識が求められます。
まとめ:引退は「終わり」ではなく、デザインする「新しい始まり」
定年が伸び、働き方の選択肢が多様化した現代は、「自分らしい人生の最終章を、自らの手でデザインできる時代」と言い換えることができます。
「みんながこうだから」という同調圧力から解放され、自分だけの「最適解」を見つける旅。それは、決して簡単な道のりではありません。
しかし、「お金」「健康」「やりがい」という3つの羅針盤を手に、ご自身の現在地を正確に把握し、未来をシミュレーションすることで、航路は必ず見えてきます。
大切なのは、少しでも早く準備を始めることです。50代になったら、本気で考え始めるべきテーマです。家族と語らい、専門家に相談し、そして何より、自分自身の心と体の声に耳を傾けてください。
引退は、労働からの「終わり」を意味するものではありません。 あなたが本当にやりたかったこと、大切にしたかった時間を手に入れるための、輝かしい「始まり」なのです。